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第一章 人間はいつも恋をしてきた 「それから」 次のような指摘はおもしろいかもしれない。「@漱石の『それから』と、『伊勢物語』第十二段は似ている。(灼熱の恋)A『伊勢物語第十二段と、『源氏物語』は似ている。(不義の子)』Bよって、漱石の『それから』と『源氏物語』は似ている。」 「漱石も『源氏物語』も、許されない恋の苦しさを描く点で共通している。」 しかし「見逃せない違いがある。『源氏物語』の光源氏は、藤壺を愛していたものの、彼女を宮中から略奪して、どこか遠い土地へ駆け落ちしようという決心ができない。『それから』の代助は、美千代を平岡から取り戻した。光源氏は、あくまでも『道ならぬ恋』の高揚感に恍惚としている。漱石は、『道ならぬ恋』として盛り上がった男女の感情が、もしも『結婚』したならば持続できるのか、心の底から知りたかったのである。」「そこに、漱石が『それから』の五年後に『こころ』を書かなければならなかった必然性がある。『先生』は、親友の『K』を自殺させてまで、お嬢さんと結婚したかった。そして、結婚できた。にもかかわらず、『先生』と『奥さん』の夫婦生活は幸福でない。」 「古典物語の最高傑作と近代小説の最高傑作とをまったく無関係なものとして読むのでなく、『恋の苦しみ』という永遠のテーマのバトン・タッチ(継承と変容)として、捉えたら面白い。」 第二章 若者はなぜ旅に出るのか?「坊ちゃん」 「いつの時代でも、人々は『自分は、今の場所で暮らすのが本当に幸せなのか』という疑問を感じ続けてきた。だから、『旅』の文学が、読み継がれてきたのだ。」 「坊ちゃんが、なぜ東京から四国の松山まで旅しなくてはならなかったのか。その答えの一つは、『坊ちゃんは、乱暴なスサノオの生まれ変わりだから、東京という文明開化の首都には居場所がなかったから』である。」 「坊ちゃんは、松山という旅先で、赤シャツというトンデモナイ奴と出会う。そして、赤シャツを倒す。坊ちゃんがスサノオで、赤シャツがヤマタノオロチなのだ。」 第三章 悲しみは時空を超える 「舞姫」 「『松浦宮物語』では、幸運にも母と子の涙の再会があった。作者は用意周到で、別れた時に母親は34歳、息子が17歳という、母子どちらも若い年齢に設定している。一方、森鴎外の『舞姫』では、『一人子』、そして『二つの都に引き裂かれて会えぬ母子』という二つの点で、『伊勢物語』第84弾が踏まえられている。鴎外は、意識的に『伊勢物語』の母子関係を借用しているのだ。そして、こちらは旅先で息子が死ぬのではなく、母親が待ちきれなくなって先に死んでしまう、という結末になっている。」 エリスは夕顔の再来 「『舞姫』で、豊太郎がエリスという異国の美少女と偶然に出会い、深く愛するようになり、やがて破局を迎えるという悲恋を描く際に、鴎外は『源氏物語』に登場する夕顔という謎めいた美女を下敷きにしている。光源氏は、貧しい庶民たちが暮らす狭苦しい家に住む夕顔という女性を発見する。しかし結局は、夕顔が死んでしまい、光源氏も重病で死にかかり、この恋は終わった。エリスもまた、貧しい家に住む美少女だった。そして、エリスは精神に異常を来し、豊太郎も意識不明の重病に陥って、二人は別れる。」「古典文学のヒロインが、明治時代に再現したのだ。鴎外が、処女作の『舞姫』を明治時代の話し言葉ではなく、『源氏物語』かと見まがうばかりの古文調(雅文)で書いたのは、『源氏物語』のヒロインを19世紀に呼び寄せるための『言寄せ』でもあったのだ。」 「さて男たちは、故郷にもどって幸福になっただろうか。浦島太郎は、父母がとっくの昔に死に絶えた故郷で玉手箱を開き、お爺さんになってしまう。豊太郎は、妊娠中のエリスを捨てた罪の意識に苦しめられる。『生ける屍』となったのは、捨てられたエリスだけではなく、捨てた豊太郎の側も同じだった。」「豊太郎という明治時代の浦島太郎が、竜宮城のようなベルリンで、乙姫のようなエリスと暮らしたあげく、故国に持ち帰った玉手箱とは、苦い『幻滅』にほかならなかった。」 第四章 人生は、「仮の宿り」である 「草枕」 「平安時代の恋愛物語では、他人との暮らしの中に幸福があるという前提があり、近代小説では、自分は自分のためだけに生きたいという前提があった。ところで、平安物語と近代小説のちょうど中間に位置するのが、中世の隠者文学である。」 |
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