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zoom RSS 天皇陵の謎 矢澤高太郎 文春新書 800円

<<   作成日時 : 2011/11/13 10:05   >>

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考古学を専門とする新聞記者の方が書かれた本である。かつてほとんど調査が行えなかった天皇陵も、最近では見瀬丸山古墳が学会の代表に公 開されたり、少しずつ状況は変わりつつあるように思われる。しかし、天皇の代替わりがあれば、今まで以上に公開されるに違いないと考えられ ていた昭和の頃の期待は実現しなかった、といっていいのだろう。天皇本人がどう考えるかということよりも、宮内庁書陵部の考え方が変わらな ければ今以上の調査等は困難なのであろう。それはそうと、奈良や大阪の巨大古墳の多くが天皇陵とされ、それゆえ本格的な調査が行えない一 方、明らかに天皇陵もしくはそれに準じると考えられる古墳であるのに、宮内庁の指定を受けていないために、自由な出入りが可能な古墳もあ る。たとえば崇峻天皇の古墳であることでおおかたの見方が一致している赤坂天王山古墳。これは奈良県桜井市から大宇陀市へと登る国道と粟原 川の南側の丘陵に位置する古墳であるが、記紀の記載や、古墳や石棺の形態から崇峻天皇の古墳であるとされる。しかし、早くから盗掘を受け、 石棺も大きく傷つき、しかも一般人の出入りも可能だったため、天皇陵とされなかったのである。現在、この古墳の入り口はかなり小さく人一人 が入るのが精一杯であるが、誰でも中に出入りできる。中に入ればそこそこ広く、暗さに目が慣れれば藤ノ木古墳のものなどとよく類似した石棺 に触れることも出来る。この他にも、継体天皇の本当の古墳とされる今城塚古墳なども、中世に城とされたために大きく変改されているが立ち入 ることは自由だった。しかし、この古墳に関しては、最近になって地元の行政の手によってまるでテーマパークのように改造されてしまったとい うことが本書に書かれている。私が10数年前に訪ねたときはむしろゴミ捨て場のような印象になっていたことを思い出す。欽明天皇の古墳と見な されている見瀬丸山古墳も数年前までは後円部の一部のみが立ち入り禁止で、後の部分は耕作地だったり、荒れ地だったりした。しかも、後円部 の囲いも厳重なものではなかったために、私などは中に入った記憶もある。天皇陵に指定されれば厳重な管理を受け、それがなければ自由に出入 りすることすらできるというのは非科学的な管理だといわれても仕方がない。これはこの本の中にも書いてあるとおりである。ところで、古事 記、日本書紀、延喜式などの記録に基づいてどの古墳がどの天皇の墓かを決めたのは、主には江戸時代の作業である。しだいに尊皇思想が高まる なか、幕府の手によって天皇陵の修築が行われるようになり、そのために天皇陵の決定も必要になったのである。この江戸時代の天皇陵の修築は 大がかりなものだったようで、修築前と後の図が今日残されているが、それはもう全く別物といわなければならない。極端な話、古墳とはいえな いものから古墳を作りだした例(初代天皇神武天皇陵)や円墳と方墳を結びつけて前方後円墳を作り上げた例(雄略天皇陵)もある。こうした天 皇陵であるが、その本格的な調査が実現すれば、新たな事実が明らかになり、古墳時代の全体的な姿が今以上に明らかになるのであるが、実際に は相変わらず神秘のベールに包まれているのである。しかし、古図や出土物と伝えられるものから間接的に天皇陵の様子が分かるような例もあ る。たとえば、大阪府堺市の仁徳天皇陵とされる大山古墳などは江戸時代の古図が残り、しかもアメリカのボストン美術館にはこの古墳の出土物 と伝えられるものが残っている。それが本当に大山古墳の出土品であるかどうかの問題は残るが、この巨大古墳に関する事実を知る手がかりには なる。しかも、明治5年には災害によって崩れたことを口実に発掘が行われており(時の県令の指示による)、その時の記録もまた手がかりと なっている。こうしてみれば必ずしも発掘が天皇陵を明らかにする絶対的な条件とはいえないことになるが、大山古墳の例などは特別なものであ ろう。現在、多くの考古学会などが天皇陵の公開を求めているが、それは主体部の発掘を指しているのではなく、古墳に立ち入って表面の調査を 行うことが中心であり、このことはこの本の末尾に詳しく触れられている。筆者は、天皇陵を一般に公開して、そこに足跡を記すことで、日本の 過去の文化に対する尊敬の念が起こることを期待しているが、これもあながち間違いではないだろう。 さて、この本の中で気になった部分を抜き書きしてみよう。 この本はおおむね時代の順番に沿って書かれており、神話的な世界ではあるが、最初は神武天皇陵についてである。次に、箸墓古墳と纏向遺跡 についてである。従来邪馬台国の卑弥呼の時代には古墳はまだ存在しなかったことになっていたが、たとえば箸墓古墳周辺の古墳から見つかった 土器の編年や木材の年輪の測定から、これら最初期の古墳が西暦200年過ぎには存在していたことがわかり、そうなると248年頃とされる卑 弥呼の没年には古墳が存在していたことになる。そうなると、卑弥呼の墓が古くからいわれていたように箸墓古墳となり、邪馬台国が初期の大和 政権であってもおかしくなはいことになる。本書には次のように記されている。「こうした発掘の成果によって、これまで当然の如く弥生時代と されてきた卑弥呼の時代には、すでに大和政権のシンボルである前方後円墳が次々と築かれていたことが証明されたと言える。倭人伝から類推で きる邪馬台国連合とは、次の時代の初期大和政権そのものだった可能性が高まったのである。」「纏向石塚、纏向勝山などは、初期大和政権を形 成しつつある邪馬台国連合の王墓だっったった可能性が限りなく高まったのである。」「先行する周囲の古墳が次々と年代が遡ることが判明した のだから、古墳の編年の常識から考えて箸墓の築造が260年であってもまったく矛盾はしない。」つまり、箸墓は卑弥呼の墓でおかしくはないと いうのである。しかし、まったく別の被葬者を考える人もいるという。「卑弥呼を佐治したその『男弟』こそが、初代の大王であり、箸墓古墳に 眠る人物ではないかという仮説である。夫のいない卑弥呼の政務を補佐して国を治めた『男弟』が台与の後に王位に就き、最終的に国土の統一を 成し遂げて、初期大和政権の初代の大王になった。それが実在した最初の天皇の可能性があり、神武天皇と同じ和風し号を持つ崇神天皇ではない か。そして、その墳墓こそが箸墓ではないか という推論である。」卑弥呼の時代にすでに古墳が築造されていたということ自体が様々なことを 想像させてくれる、たいへんおもしろい事実である。」 さて、奈良盆地南東部には、箸墓などのほかいくつかの大王級と目される古墳がある。巨大な円筒埴輪などで人々を驚かせる桜井茶臼山古墳や メスリ山古墳などである。桜井茶臼山古墳は大東一高の先生や生徒と奈良研修旅行を行った際に後円部に登り、足元の悪さとクモの巣などでひん しゅくを買った古墳である。しかし、その後再発掘され大量の朱に彩られた竪穴式石室の埋納部などが話題になった。メスリ山古墳は今から30 年くらい前に訪ねたときには田んぼのあぜをたどり、カエルの声を聞きながらだったのに、いつの間にか住宅街の古墳公園のようなものになって しまった。 こうした初期大和朝廷発祥の地の巨大古墳の系列を時代順に並べると、次のようになるという。箸墓→西殿塚古墳→桜井茶臼山古墳→メスリ山 古墳→行燈山古墳(崇神天皇陵)→渋谷向山古墳(景行天皇陵)。これが事実上初期大和朝廷の大王の系譜となる。

改造、変造、新造された御陵 その代表格ともいうべき例が、雄略天皇陵(大阪府羽曳野市)とされる古墳であるが、円墳と方墳がむりやり合成されて作られたものである。 もちろん本当の雄略天皇陵が別にあるのはいうまでもない。近鉄京都線で大和西大寺をすぎ、電車が大和郡山に向かう途中に巨大な周濠を備えた 垂仁天皇陵とされる古墳がある。周濠の一角に島があり、これが田道間守(たじまもり)のはかと墓とされているものである。しかし、これは幕 末の修陵の時に行われた工事で周濠が拡大され、その時に外堤の一部が残ってしまったものである。大和盆地は雨が少なく、そのためにため池が 発達しているが、古墳の周濠がそれに利用されている例も少なくない。崇神天皇陵とされる行燈山古墳の場合も、地元の柳本藩が潅漑用水の確保 のために行った工事によって今日見るような立派な周濠ができあがったのである。しかし、これが問題にもなっているという。墳丘の裾の円筒埴 輪列が水没したり(ウワナベ陵墓参考地など)、波によって墳丘の下部が大きくえぐられたりするという。ところが宮内庁もこれには手が出せな い。なぜなら、江戸、明治だけではなく、現在もなお陵墓の周濠の水利権は地元の農家の手にあるからである。地元の水利権が消滅したのはいわ ゆる仁徳天皇陵、大山古墳だけだという。そういえば、大山古墳の周りは完全に宅地化が進み、田畑はまったく見えない。

空前絶後の大陵墓群 大阪府堺市の百舌鳥古墳群、羽曳野市・藤井寺市などの古市古墳群などは今日でも目を見張るような巨大古墳の集まりで、おおむね5世紀とさ れるが、この当時が最も巨大な古墳が作られた時代であった。渋谷向山古墳以降の大王墓の系譜はこの本では次のように表現されている。→宝来 山古墳(垂仁天皇陵)→五社神古墳(ごさしこふん、神功皇后陵)→仲ツ山古墳(仲姫命陵)→石津丘古墳(履中天皇陵)→誉田山古墳(応神天 皇陵)→大山古墳(仁徳天皇陵)→土師ニサンザイ古墳。つまり五社神古墳を最後に大王墓は奈良を離れ、現在の大阪の地に移動するのである。 これを水野祐氏の王朝の交代と考えることも出来るが、大和政権そのものが連合政権であって、その長は時代とともに移動したと考える方が妥当 性があるという。

継体天皇は王位の簒奪者か? 第26代の継体天皇は応神天皇5代の孫で、現在の福井県から出発して皇位に就いたとされる。ところが、記紀の継体天皇の記述を見ると、奈 良に入るのに大変な年数を有しており、その意味で実はそれまでの大王の系譜とは無関係で、実力で皇位を奪った人間ではないかと考えられてい る。その墓は現在大阪府茨木市にある太田茶臼山古墳と呼ばれるものである。しかし、時代が合わないことなどからそれを信じる人は少なく、実 際には同じく三島野古墳群に属する今城塚古墳がそれであるとされる。今城塚は中世には城に使われ、形も大きく崩れ、長くゴミの不法投棄の場 所などになっていたが、近年整備されたものの、まるでテーマパークのようになってしまったと筆者は嘆いている。私もかつてこの今城塚を訪 ね、古墳のあちこちを歩いてみたが、テーマパークのような古墳とはどのような状態なのか訪ねてみたいという衝動にかられる。これもやはり文 化財の破壊に違いない。さて、では太田茶臼山古墳と今城塚の関係はどうなっているのだろうか。実はおもしろいことに両方の古墳のそばから埴 輪などを焼いた窯の跡が発見されており、しかもそこで焼かれた埴輪は両方の古墳に供給されている。こうしたものを参考に考えてみると、太田 茶臼山と今城塚は同じ系譜に属する古墳であり、しかも太田茶臼山古墳が今城塚の二代前の古墳ということになる。そうすると太田茶臼山の被葬 者は今城塚の祖父ということになり、今城塚の被葬者が継体天皇であるならば継体天皇は福井県から来た人ではなくなり、地元の有力者だったこ とになる。その者が大きな権力を手にし、天皇家に入り婿して、天皇になったのである。ところで継体天皇の皇后は手白香皇女(たしらかのひめ みこ)。その陵は大和盆地南東部の西殿塚古墳とされている。しかし、先にも記したようにこれは初期大和政権の大王墓と見るのが正しいから手 白香皇女の墓ではない。だとするならば、近くに年代観などから見て適当な古墳があるだろうか。近くで継体天皇の時代6世紀前半と目される古 墳は西山塚古墳のみであり、これが手白香皇女の古墳と考えられる。しかし、なぜ夫の天皇の古墳と大きく離れているのだろうか。これについて 次のような説明があることが紹介されている。「継体天皇がヤマトの王権との継続性、正当性を主張するため、自らの出自を表現する手段とし て、始原期のヤマト王権の墳墓の地である大和、柳本の地に皇后の墓を選んだということでしょう」こうしたケースは他にも見られるという(仁 徳天皇と皇后の磐之姫の陵のケースなど)。

方墳、円墳と蘇我氏 古墳時代の終末期、7世紀頃の状況を見ると、当時我が国で最強を誇っていた大豪族蘇我氏系の大王墓や豪族墳は方墳、反蘇我氏系のそれは円 墳という図式が見られるという。古墳の見学などをするときに記憶にとどめておくべき事柄である。方墳の代表例が明日香の石舞台古墳である。

この後にも益田岩船(奈良県橿原市)や石の宝殿(兵庫県)などが実は作りかけの横口式石郭であり、どちらもひびが入っているのが確認され ているが、そのために作業が中断されたということなど、興味深い話がたくさん載せられている。

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フェラガモ 靴
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フェラガモ 靴
2013/07/03 11:34

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