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zoom RSS 短歌で読む昭和感情史 日本人は戦争をどう生きたのか 菅野匡夫 平凡社新書 800円

<<   作成日時 : 2011/12/30 11:53   >>

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昭和万葉集を編集した筆者が、昭和の時代を生きた人々の歌を歴史的な背景も含めながら記した本である。戦争の時代を生きた名もなき庶民の思いに接することができた。

 一番最後に載っている歌。「敗戦から少し時が経って、ある気持ちのいい朝、食事を終えた老夫婦の会話である。
 
 あなたは勝つものとおもってゐましたか と老いたる妻のさびしげにいふ    土岐善麿

土岐は歌人、新聞記者として知られる人である。石川啄木とも親交を結んだ。
「土岐は、温厚で柔和な人だったが、明治男の一途さ、頑固さをそなえていた。家事と育児は妻に任せきりで、ひたすら自分の仕事に没頭してきた。妻が社会の動きについて発言することなど許さなかっただろう。戦後の解放感からか、妻は長いこと心の内にしまってきたことを、はじめて口に出していった。」

兵士として出征する夫を見送る妻の歌。

 生きて再び逢ふ日のありや召されゆく君の手をにぎる離さじとにぎる   下田基洋子

 汽車の窓 間近に夫と向ひ居て すがらむばかりの吾が心なり   児島芳子

1941年12月8日、開戦の日の歌

 ホノルル燃ゆグワム燃ゆと叫ぶラジオの前 坐りて立たず朝より夕(よべ)に  大高富久太郎

 国興る世代の資料(しろ)と一二月八日の夕刊たたみて保存す   清水芹畝

 人間の常識を超え 学識超えて起これり 日本世界と戦ふ   南原繁

南原は戦後東大の総長となった政治学者である。東大の卒業式で「太った豚になるよりも、痩せたソクラテスになれ」と語ったことが有名である。

真珠湾攻撃に参加した人の歌も残っている。

 一次攻撃の総試運転始まりて 微かなる振動はここに伝はる   佐藤完一

この人は、空母蒼龍の機関大尉として、機関室に勤務していた。戦闘に参加する航空機が発進を前に試運転を始め、その振動がはるか下にある機関室にも伝わってきた。

 千住あたりの空の曇りよりあらはれしグラフツェッペリンはおもむろに来る   堀内通孝

昭和の初めにドイツから飛行船が飛んできたことは当時の人々には新鮮な話題だったという。

 秋晴れの今日は祭り日サンドウィッチひと箱買ってデパアトを出る   石川信夫

「昭和4年世界初のターミナルデパートが大阪梅田に誕生した。阪急電鉄が直営する阪急百貨店である。一階が電車の乗り場と切符売り場。7・8階が大食堂と現在のデパートの原型を生み出したのは、小林一三社長のアイデアだった。食堂では一皿25銭のライスカレーが大人気を呼んだ。」

こんなしあわせな気分はそう多くの人に共有されていなかった。昭和の初めは不景気の時代だった。世界大恐慌の影響が日本にも押し寄せ、失業者が町にあふれたという。

 学卒へて帰るわかうど 職のない世の不景気を憤りいふ   松村英一

 雨降れる本屋にあれば はひり来し少女買ひたり雑誌戦旗を   溝淵龍也

昭和6年、満州事変が起こる。日本はここに傀儡国家満州国を作った。

 新しき国興る奉天より語りくるこゑは夜ごとにきこゆ   竹尾忠吉

「この歌は、首都・奉天からのラジオ実況中継が満州建国の様子を毎晩伝えてくる、と詠んでいる。」

 街中をタンクとどろき過ぐるさへあやしまぬ世となりにけり   松岡貞総

そして昭和11年、2・26事件が起きる。
 
 市街戦つひに迫れるけはひあり 辻守(も)る兵らの黒き顎紐   中村正爾

 重臣閣僚殺戮されしと知りながら一行も触れぬ新聞つくる   亀山美明

昭和の初めの恐慌はとくに農村に大きな打撃を与えた。

 岩手のや青笹村は かしぐべき稗粟もなし しだみ食ふといふ   大江徹

 貧しさはきはまり つひに歳ごろの娘ことごとく売られし村あり   結城哀草果

昭和12年7月7日、北京郊外廬溝橋で日中戦争が始まる。

 とだえゐし機関銃の音 たちまちに河岸近くまた起こりけり   高木園子

「当時、北京で日本人旅館を経営していた女性の歌である。」

 頑固なる抵抗をせし敵陣に泥にまみれしリーダーがありぬ   渡辺直巳

「敵兵の中に学生義勇軍など、抗日のために志願した学生がいたことを暗示している。」リーダーは英文読解の教科書である。 

 死際の言葉わかねど うら若き支那兵は母よと叫びけんむかも  門井 真

日本軍は政府の不拡大方針も無視して進撃し、12月中国の首都南京を攻略した。ここに南京事件(南京大虐殺事件)が起きたといわれる。「この歌は、従軍記者(名古屋新聞社)が、13年3月に目撃した南京の光景である。」

 二万余のいのちたちまち滅びしと わが驚く前のしかばねの山   三田澪人

日中戦争で、日本軍は100万人の大軍を派遣した。そのため、軍に召集される人が急激に増えていった。

 召集令下ると呼ばれつと起(た)ちて人出て行けり 映画なかばに   鵜木 保

 吾が覚悟うべなふ妻が 手足もげても生まれむ子のため 帰り来よとぞ   山口重吉

 敵地より帰りし人がパーマネントの女を見て 舌打ちをせり   那賀寿美子

日中戦争から太平洋戦争へと戦争が続き、しだいに人々の食料や衣服なども欠乏していった。

 晴着二枚と替へたるいもは宝なり 麦とかゆにしていく日つながむ   高木せつ

 木炭車の発車待つ間を 背(せな)熱く後部の席に 汗たりてをる   上原広毅

木炭車は石油が欠乏するなか(戦前は国内で消費する石油の70%をアメリカから輸入していた)、自動車やバスに木炭釜をつけ、そこで木炭を不完全燃焼させて、そのガスをエンジンに送って燃焼させ動いた。

 銃持ちて丘に来たれる女学生の一群ありて射撃始めぬ   杉本栄一

 命捨てて国に報ゆる者誰(た)ぞと言い終へざるに皆立てり児らは   佐久原直樹

 夫(つま)とのる最後とならん夜の汽車に 温かき牛乳わけてのみたり   神戸照子

 さがし物ありと誘ひ夜の蔵に 明日征く夫(つま)は吾を抱きしむ   成島やす子

日本軍の進撃が続いたのは昭和17年の半ばまでだった。17年の6月中部太平洋のミッドウェー海戦で日本の空母4隻が沈められ、多数の戦闘機と搭乗員を失い、秋から冬にかけて南太平洋のガタルカナル島の激戦で大敗し、アメリカの反攻が始まった。

 炸裂する砲弾の中に忘れゐし ひもじさはまたも激しく襲ふ   高木八郎

国内でも生活の厳しさは増すばかりだった。

 一本に残りし大根我が番まで売れずにあれと願ひつつ待つ   吉田佳子  

 竹槍を執りゆく妻を見おくりて かりそめならぬことと思へり   川上光清

昭和18年の秋、それまで徴兵猶予となっていた文科系の高等教育機関の学生も徴兵されることとなった。壮行会なるものがいまの国立競技場の前身となるグラウンドで行われ、これから戦場に赴く若者を、観客席にいる同じく高等教育機関に通う女学生たちが見送った。全部で77校の学校から男子学生が参加したというが、そのなかには大東文化学院(現在の大東文化大学の前身)の学生も含まれていた。

 神宮競技場ここ聖域にして送らるる学徒幾万に雨降り注ぐ   吉野昌夫

 遂げ得ざる論文を措きて卒業す 悔と言はばかかる悔のみ   唐津恒男

 残りたるページを終えて征きなむとベエムの利子論今宵読み急ぐ   内海洋一

昭和19年、北進を続けてきたアメリカ軍はサイパン島を占領し(ここには多数の民間日本人が住んでいたために、その多くが自決するなどの悲劇を招いた)、日本本土を直接爆撃できる体勢を整えた。日本のほとんどの都市が終戦までに空襲を受け、焼け野原となった。  
 
 頭髪のやけうせしむくろが みどりごをいだきてころぶ日の照る道に   天久卓夫

 焼死者をトラックに積む兵卒ら無造作なり荷物扱うごとく   能重真太郎

同じ頃、神風特攻隊による攻撃が始まった。

 新しき光に生きんおさな子の幸を祈りて我は散らなむ   熊井常郎

 きみ想ふこころは常にかわらねど すべてを捨てて大空に散らむ   小城亜細亜

昭和20年の夏になると戦争を続けることは困難になり、日本の指導部は降伏も視野に入れて検討を重ねた。

 降伏の条件なるものと黙殺との相つぐ報道に破局を思ふ   徳川義寛

アメリカとイギリス、中国は日本に無条件降伏を求めてきたが(ポツダム宣言)、日本は天皇制の護持を最大の目的にこれの受け入れをためらった。結局はそのために広島、長崎の原爆投下、ソ連の対日戦の開始などさらなる悲劇を重ねた。

 黒焦げで吾子の相(かお)は分からねどバンドの名前で親は飛びつき   正田篠江

 汝が命断たむてだてをめぐらせる このむね知れや知らであれかし   岸野愛子

そして終戦。

 三人(みたり)の子国に捧げて哭(な)かざりし母とふ人の号泣を聞く   二上範子

 あなうれしとにもかくにも生きのびて戦やめるけふの日にあふ   河上肇

河上はマルクス経済学者で京大教授であったが、治安維持法違反に問われて投獄、出所後も京都に住んでいた。

都会の子どもたちは学童疎開で親と離れて田舎で暮らしていた。

 玉音に泣き伏しゐしが時ありて児らは東京へ帰る日を問ふ   永山嘉之

そして冒頭の歌の世界へともどっていく。

 立ちかへる御国の春を疑はず七夜泣きて心定まる   四賀光子

 焼跡に焼けたるものを集め建つ天地根源づくりの小屋ひとつ   藤沢古実

 汁の実も菜も乏しき焼原に南瓜の花をこの朝も食ふ   同

 焼跡にころがりてゐしドラム罐銹おとし穴うめて風呂桶となす   金子一秋

 思はざるところに青く海見えて 焼跡の丘あまりに広し   森川邦男

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