読んだ本の内容まとめ

アクセスカウンタ

zoom RSS 昭和陸軍の軌跡 川田稔著 中公新書 940円

<<   作成日時 : 2011/12/25 21:19   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 0

 今年は日米開戦から70年目である。そうした意味で、なぜこの無謀な戦争に至ったのかについて関心をもつ人も多いのであろう。この本の趣旨について、後書きに次のように記されている。「昭和陸軍は、満州事変を契機に、それまで国際的な平和協調外交を進め国内的にも比較的安定していた政党政治を打倒した。その昭和陸軍が、どのように日中戦争、そして対米開戦・太平洋戦争に進んでいったのか。その間の陸軍をリードした、永田鉄山、石原莞爾、武藤章、田中新一らは、どのような政戦戦略構想をもっていたのか。本書の関心はその点にある。」著者は民政党内閣や浜口雄幸についての著書もあり、歴史学よりも政治史的な観点からこの本を記している。

昭和陸軍をリードした永田鉄山の思想

 まず永田鉄山がどのような思想をもっていたかである。「これまでのように常備軍と戦時軍動員計画だけでは戦時武力を構成し、これを運用するのみでは『現代国防の目的』は達せられない。さらに進んで、『戦争力化』しうる『人的物的有形無形の一切の要素』を統合し組織的に運用しなければならない。」「大戦以降の戦争は、これまでと異なり、『長期持久』となる場合が多いことを覚悟しなければならないという。したがって、『武力のみによる戦争の決勝は昔日の夢と化して、今や戦争の勝敗は経済的角逐に待つところが甚だ大となってきている。』と。現代の戦争は長期の持久戦となる可能性が高いため、経済力が勝敗の決定を大きく左右すると指摘しているのである。」「このように世界の強国との長期持久戦をも想定するとすれば、永田の見るところ、帝国の版図内における国防資源はきわめて貧弱であり、なるべく「帝国の所領に近い所」に、この種の資源を確保しておかなければならない。この不足資源の確保・供給先として、永田は満蒙を含む中国大陸の資源を念頭に置いていたが、この点は彼の中国論と関連するので後述する。」「このように永田は、大戦における兵器の機械化、機械戦への移行を認識しており、それへの対応が国防上必須のことだと認識していた。またそれらの指摘は、日本軍の肉弾白兵主義、精神主義への批判を内包するものであった。」「一般に工業の発達すると否とは国防上重大な関係がある。永田はそう考えていた。機械化兵器や軍需物資の大量生産の必要を重視していたのである。では、日本の現状は、そのような観点からして、どうなのであろうか。」「永田は、欧米列強との深刻な工業生産力格差を認識し、工業力の『貧弱』な現状は、国家総力戦遂行能力において大きな問題があると考えていた。したがって、『工業力の助長、科学工芸の促進』が必須であり」「だが他方、永田は、戦時への移行プロセスにさいしては、国防資源の『自給自足』体制が確立されなければならないとの考えであった。」「平時は、工業生産力の発達を図るために、欧米や近隣諸国との国際的な経済や技術の交流が必須だと永田は考えていた。従って、外向的には国際協調の方向が志向されることになる。それが国際協調をとる政党政治に協力的であった宇垣軍政に、ある程度まで永田が政策上必ずしも否定的でなかった一つの要因だった。」一方永田は戦争不可避論の立場に立ち、また国際連盟を通じた国際協調体制に否定的な立場だった。したがって、「今の平和は、むしろ『長期休戦』とみるのが安全な観察である。永田は結論づけるのであった。」不足する資源の供給先と考えられる中国への永田の考え方はどうなっているのか。「永田にとって、中国問題は基本的には国防資源確保の観点から考えられ、満蒙および華北・華中が、その供給先として重視されていた。とりわけ満蒙は、現実に日本の特殊権益が集積し、多くの重要資源の供給地であり、華北・華中への橋頭堡として、枢要な位置を占めるものであった。ちなみに、1920年代の陸軍主流をなしていた宇垣一成は、長期の総力戦への対処として軍の機械化と国家総動員の必要を主張しており、その点で永田と同様であった。だが、基本戦略としてワシントン体制を前提に米英との衝突はあくまでも避けるべきとの観点に立っており、主にソ連との戦争を念頭に、中国本土を含まれないかたちでの、日本・朝鮮・満蒙・東武シベリアを範域とする自給自足圏の形成を考えていた。それは、資源上からも厳密な意味での自給自足体制たりえず、」不足軍需物資は英米などからの輸入による方向を想定していた。したがって中国本土については米英と協調して経済的な発展を図るべきとの姿勢であった。英米とも中国本土には強い利害関心をもっていたからである。また、もし次期大戦が起これば、当然米英と提携することが想定されていた。」しかし、永田は英米との協調しながらの自給自足体制では、「国防的な観点から見て国策決定の自主独立性が失われる」と考え、この点が宇垣と永田の大きな違いとなるのである。
 永田の結論は次のようになる。「永田はいう。『近代的国防の目的』を達成するには、挙国一致が必要であり、それには政治経済社会における幾多の欠陥を『剪除』しなければならない。だが、そのためには『非常の処置』を必要とし、それは従来の政治家のみにゆだねても不可能である。したがって、『純正公明にして力を有する軍部』が適当な方法によって『為政者を督励する』ことが現下不可欠の要事である、と。このような永田の構想が、満州事変以降の昭和陸軍をリードしていくことになる。

満州事変以降の陸軍中央における対立(皇道派と統制派、隊付青年将校)

 「(事実上満州事変を終わらせた)タンクー停戦協定締結直前の1933年(昭和8年)四、五月ごろ、一夕会内部で、バーデン・バーデン以来の名優である、永田と小畑の政策的対立が表面化する。」「一夕会に亀裂が走り、永田ら一夕会主流は、真崎、荒木らをコントロールすることが困難となり、皇道派がヘゲモニーを掌握することになったのである。」では、小畑と永田らの大きな違いは何だったのであろうか。ともに、資源の供給地として満蒙や中国を重視することに変わりはない。しかし、小畑らは国力が次第に充実しつつあるソ連に一撃を加えなければ、満蒙や中国を確保できないと考えたのに対して、永田らはソ連の国力充実にはもう少しの時間的な余裕があり、今すぐにソ連との戦争を開始する必要はないと考えたのである。また、対ソ戦に踏み切るにしても満蒙の開発や欧米との政治的な調整など事前に進めなければならないことが多いとも考えた。こうした陸軍中央での対立に加えて、各部隊の隊付青年将校などにも別グループが形成されつつあった。後の5・15事件や2・26事件を引き起こすメンバーである。昭和6年11月に九段の偕行社で一夕会中堅幕僚と隊付青年将校の話し合いが行われている。「ここで、『軍政掌理者以外は断じて政治工作に関与すべきものにあらず』と主張する中央幕僚側に対して、隊付将校側は『軍中央はわれわれの運動を弾圧するつもりか』と反論。これに対して幕僚側は『そうだ』と応じ、会議は決裂した。」
 その後、有名な陸軍パンフレット「国防の本義と其強化の提唱」が発行されるが、そこには永田らの考えが示されている。「戦時のみならず平時における国家統制の主張。そこにこの文書の一つの特徴がある。その背景には、満州事変、国際連盟脱退を経て、国際的な緊張状態のなかで政治的発言力を増大させてきた永田ら陸軍中央の、国家統制への意思表示が示されているといえよう。」なお、この文書には「農村漁村の匡救」「国民大衆の生活安定」などが主張されており、「これらの点は、当時最大の無産政党であった社会大衆党書記長麻生久や僚友の同国際部長亀井貫一郎などが、この文書を評価する一因となった。菅波ら隊付青年将校国家改造グループも、この部分などからパンフレットを積極的評価していた。」しかし、永田らはそうした青年将校の運動を認めなかった。「なお、真崎はパンフレットは『国家社会主義思想』だとして、忌避していた。」「以上のようなパンフレットの主張はまた国内政治体制の問題と連動していた。平時における『国家の全活力』の『総合統制』の観点からも、軍部の積極的な政治介入、軍部主導の政治運営が必要だとされるのである。」しかし、1935年(昭和10年)8月12日、永田は真崎罷免の黒幕だとされ、相沢三郎中佐に斬殺される。「相沢は、大岸、末松ら国家改造派隊付将校らと親しい付き合いがあり、また真崎とも個人的な関係があった。永田は、かねてから皇道派や国会改造隊付青年将校から、一連の皇道派圧迫の中心人物とみなされており、相沢もそう考えていた。」
 
武藤章・石原莞爾の登場
 「永田(陸軍省)軍務局長時代、陸軍の有力な政治集団としては、永田らの統制派、真崎らの皇道派、南らの宇垣系の三派閥があった。永田死後、皇道派はほとんど陸軍中央から放逐され、宇垣系も陸軍中央に復活できなかった。統制派は、永田を失い大きな打撃を受けたが、(中堅幕僚に)・・・多くの有力メンバーを残していた。また、・・・非皇道派系の一夕会会員も、必ずしも一つの政治グループとして動いていたわけではないが、宇垣系、皇道派とは距離を置いており、相対的には統制派に近い存在であった。永田暗殺の翌年、1936年(昭和11年)冬、2・26事件が起こる。」「結局クーデターは失敗し、隊付青年将校の国家改造運動は壊滅。彼らとつながりのあった、真崎、荒木、柳川、小畑ら皇道派も予備役に編入され、事実上陸軍から追放された。また、それに抱き合わせのかたちで、南、阿部、建川ら宇垣系も予備役となり、政治色のある有力な上級将校は、ほとんど現役を去った。」「そのような陸軍の政治状況のなかで強い影響力を持つようになったのが、陸軍省では武藤章軍事課高級課員、参謀本部では石原莞爾作戦課長であった。いずれも永田が軍務局長在任中にそれぞれ陸軍省、参謀本部に呼び寄せていた。」「この武藤、石原らを中心とする陸軍の圧力によって、1936年(昭和11年)5月、広田弘毅内閣下で軍部大臣現役武官制が復活する。」これが軍部の発言力をさらに強めたことがよく知られている。この二人のうちで陸軍により強い影響力を与えたのが石原莞爾である。満州事変を引き起こしたことで知られるが、日中戦争の時には一転戦線の拡大に反対した。「石原の長期戦略は、・・・アメリカとの最終戦争を念頭に、東アジア、東南アジアにおけるイギリス勢力の駆逐と、そこでの東亜連盟の建設、資源確保に向けられていた。つまり基本的には南方進出論といえるものであった。対ソ戦備の充実は、その前提としてソ連の極東攻勢を断念させ、背後の安全を確保しておこうとするものであった。」「中国の現在の『苦境』を認識して、その『建設統一運動』を援助すべきである。その観点からすれば、『北支』はこの統一運動に包含せらるべきものだ、と。対中国政策において、従来の華北分離工作とは異なる見解が表明されているのである。」この石原らの意見を容れて、参謀本部は従来の華北分離工作を中止すべきとの方向転換を表明、陸軍省もそれに従った。国政レベルでもこの転換を受け入れた。「では、なぜ石原は、このような軌道修正を行ったのであろうか。その理由の一つは、対ソ戦備問題への危機意識からくる、米英など国際関係への配慮によるものである。」「もう一つの理由は、中国におけるナショナリズムの高まりと、それを背景とした国民政府による国家統一の進行と抗日運動の激化である。」「一般の抗日運動をいたずらに弾圧するのではなく、『支那統一』『新支那建設』のための『正当なる民衆運動』に方向転換させるべきだというのである。」「石原はこう考えていた。日本が(日本による傀儡政府)から手を引くなど、華北分離政策を放棄し、華北における政治的権益を引き揚げれば、日中提携は可能になる。それによって蒋介石に事実上満州国の存在を認めさせ、日中関係を東亜連盟の方向に進めさせうる、と。ただし、そのような融和的な方策にもかかわらず、中国が日本との国交調整を拒否し、東亜連盟の方向をまったく受け入れない場合は、武力によって『南京政府を撃破屈服せしむる』との覚悟は固めていた。石原の想定するアメリカとの世界最終戦は、中国の資源と潜在的経済力を不可欠だと考えていたからである。したがって石原は、そのような場合に備えて対中国作戦計画立案にも着手するが、その途中で廬溝橋事件となる。」日中戦争が始まると「陸軍中央では、石原莞爾参謀本部作戦部長らの事態不拡大派と、武藤章作戦部作戦課長、田中新一陸軍省軍務局軍事課長らの拡大派が対立。」7月10日「参謀本部で武藤ら作戦課の派兵案が審議された。このころ石原は『目下は専念満州国の建設を完成して、対ソ戦を完成し、これによって国防は安固をうるのである。支那に手を出して支離滅裂ならしむことはよろしくない』と考えていた。」「だが、この審議では、むとうらの派兵案に同意を与えた。」「それに対して、武藤らはこう考えていた。中国は国家統一が不可能な分裂状態にあり、日本側が強い態度を示せば蒋介石ら国民政府は屈服する。今は軍事的強硬姿勢を貫き一撃を与え、彼らを屈服させて華北5省を日本の勢力下に入れるべきである。そして、満州と相まって対ソ戦略体制を強化することが必要だ。」「武藤らは次期大戦への対処の観点から、石原の政策に強い危機感をもち、華北の軍需資源と経済権益をあくまでも確保しようとしたのである。」「そのいみで、日中戦争は、石原の華北分離政策に対する反動であり、激しい揺り戻しとして始まったともいえよう。」この後、本書は日中戦争が泥沼の状態となり、三国同盟を結ぶことがアメリカとの関係をさらに悪化させ、日米交渉の後に破局的な日米戦争に入った状況が描かれる。その過程で、武藤が日米戦争に反対し、田中新一がそれを積極的に進める様子が描かれるが、戦後の極東軍事裁判で武藤は死刑となり、田中は被告に対する告発者となったことはよく知られている。

月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 2
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
昭和陸軍の軌跡 川田稔著 中公新書 940円 読んだ本の内容まとめ/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる